梨の小話
梨の成分と効能
カリウム
体の塩分を排出する作用があり、血液をサラサラにしてくれるため高血圧予防にも効果があります。
カリウムは不足しやすいミネラル
カリウムはいろんな食品に含まれます。野菜、肉類、いも類、海草類、豆類、穀類、これらの中に含まれるカリウムは調理をしたときに失われる率が大きいのです。たとえば煮た場合30%もの栄養素が失われます。その点、調理無しで食べることの出来る果物類はカリウムの供給源となります。筋肉がエネルギーを作り出すときに不可欠なミネラルでもあります。心臓を動かすのにもこのカリウムが欠かせません。アルコールや甘い食物のとりすぎ、下痢やストレスなどもカリウムを減らします。
ソルビトール(甘みの成分の一種)
他の果物と比べても、梨に含まれるソルビトールはダントツの多さを誇ります。
他の糖類と比べて体への吸収が遅く吸収されなかった糖分が大腸に到達したときに、腸内の善玉菌のエサとなって大腸を刺激し便秘の改善を図ります。又熱を下げ咳止めの効果もあります。
アスパラギン酸
アンモニアを対外に排出する作用と疲労にたいする抵抗力を高めてスタミナを増強する効果があります。
タンニン
アルコールの排出を促す成分です。二日酔いのときに冷やした梨を食べると最高です。
梨のよもやま話
現在市場に出回っている梨の品種の八割は二十世紀の梨の血を引き継いでおり、8月に出回る赤梨の代表的な品種の(幸水梨)は、二十世紀梨の孫にあたります。 又昔の人は、梨のことを「ありのみ」と呼んでいました。これは平安期に出された歌集の「相模集」や「山家集」に出ているようです。 何故ありのみなのかといえば、梨という言葉は「無し」と言う意味を持っているという意味を嫌ってのことでしょう。梨の花言葉は「和やかな愛情」です。
山家集(ナシ・アリノミ)の短歌
△梨ナシ・アリノミ 年ふれどかはらずながらつれなしの あらぬ物にも身こそ成ぬれ (新撰六帖 六 家良) いたづらにおふのうらなし年をへて 身は数ならず成まさりつゝ(同 為家) をきかへし露ばかりなるなしなれど 千代ありのみと人はいふ也(相模集) 花の折かしはにつゝむしなのなしは ひとつなれどもありのみとみゆ(山家集 下) 甲斐がねに咲にけらしなあし引の 山なしをかの山なしの花 (甲斐国志 百二十三産物及製造(夫木集 能因法師)) △鹿梨ヤマナシ・アリノミ 山なしの花しら雪ふるさとの 庭こそさらに冬ごもりけれ (夫木和歌抄 二十九梨 民部卿為家) 足曳の山なしの花咲しより たなびく雲のおもかげぞたつ(新撰六帖 六 家良) きゝわたる面影みえて春雨の 枝にかゝれる山なしの花(同 為家) 参考:吉川弘文館発行「古事類苑」
梨の歴史
日本での梨の歴史をみてみましょう。今から1300年くらいに書かれた『日本書記』に、桑・栗などど共に梨の栽培が奨励されたと書かれています。奈良時代に始まる貴族の時代では、梨は花を愛でると同じに儀式の際にも重要でした。『万葉集』に、
「梨、棗、黍に栗嗣ぎ、延ふ田葛の後も逢うはむと葵花咲く」(巻16)
という歌があります。また、平安時代の歴史書の『三代実録』には、桜と桃と一緒に梨の花が開いたとあります。 儀式の為の梨では、同じく平安時代の『延喜式』に神様に供えるものとして梨があげられており、信濃国(長野県)や因幡国(鳥取県)から梨が献上されたともかかれています。 他に1060年ぐらい前に編された『和名類聚鈔』にも梨がのっています。 鎌倉時代の有名な歌人である藤原定家の著した『明月記』によると、旧暦の三月頃梨の花が開き、九月頃に梨の実がなり、更に土産ものとして梨をもっていったなども書かれています。 室町・戦国・安土桃山時代の『多聞院日記』には、みやげもので持っていったこと、あるいは、アリノミ(梨の別称)のつぎ木を春とした等、様々な記事がみえます。 また、あまなし、いはなし」というように梨の種類があげられています。江戸時代の梨は、食べ物として様々な文献に書かれます。 例えば、元禄十年(1697年)刊行の『本朝食艦』では、調理法はどのようなものなのか、どこの名産か、と現代のグルメ本のはしりと言えましょう。 江戸時代後期~明治時代には、各地での生産技術の発達に伴って、梨を含めた果樹栽培法について述べた書物が多く書かれています。 幕府は、享保・元文(1735年前後)に全国各地から産物帳を提出させ、これによると梨の名称だけで、百余種判明します。 大蔵永常の『広益国産考』、佐藤信渊の『草木六部耕種法』は江戸時代、藤井徹の『草木栽培法』、小田鬼八の『実験梨樹栽培全書』、『日本地誌略物産弁』は明治時代のものです。 これらは、江戸時代や明治政府が自国に利益をもたらすために栽培を勧め、その結果生まれた指導書でした。

梨の民話 へつこきよめ
むかし、あるところに、ばあさまと兄さがあって、その兄さが嫁さをもらった ってや。 嫁さは、器量よしで気立てがよくて、働きものだったから、ばあさまも 兄さも喜んで、幸せに暮らしていたって。 ところが、しばらくすると、嫁さの顔色がみるみる悪くなってきたので、ばあ さまが心配して尋ねると、嫁さは『へをがまんしているから』と、消え入りそう にゆうた。 それを聞いた、ばあさまが『今日は、おまえとおらだけだで、こいたらええが な』というたので、嫁さはほっとしておもいきりへをこいた。その大きいこと、 大きいこと。 ばあさまは、風にふっとんで、庭の樹のてっぺんにひっかかってしまつた。 お まけに髪の毛まで吹っ飛んで、ばあさまの頭が丸坊主になってしまったので、あ にさは怒って嫁さを親元に返すことにしてしまった。 次の朝、兄さは嫁さを連れて家をでた。 すると、途中に大きな梨の樹があって、子供たちが大騒ぎをしていた。梨の実 を取ろうとしているのだが、樹が高くて届かない。 嫁さは、ボッボーンと大きな へをこいた。すると、大きな梨の実がバラバラと地面いっぱいに落ちてきた。 そこへ、殿様が通りかかり、のどが空からに乾いていた所だったので、殿様も 家来も子供たちも、梨にかぶりつき夢中でほおばった。 そして、殿さまは褒美と、嫁さの両手にのりきれないほどの小判をくれたって。 兄さは、嫁さにあやまって、また家に戻ってもらい、それからは三人仲良く、 暮らしたっていうことじゃ。



※松戸市文化ホール「はばたけ二十世紀梨」より参照。
梨について
梨は百果の長といわれるほど、果物の中ではとりわけ珍重されているものである。 特に、胃腸病の人などにはとりわけ珍重されてるものである。梨の特性として、風や寒さの激しくない東南向きの肥えた土地がよい。 屋敷の周囲や、屋敷内の菜園の垣の近くで、湿気が少なく暖かな所で成育しやすい。 一般に、梨ばかりでなく大きな果物をつける木は温和の気をたいそう好むものなので、適地は、地味が肥え、気候の温和な土地と心得てよろしい。 痩せ地で土俵が浅く硬い土地などでは、たとえ実はなっても小さくて味がよくない。屋敷内に植える場合でも、暖かい場所を選ばれなくてはいけない。
○繁殖には接木が一番よい。さし木でもよく活着する。実生の場合は、よく熟した味のよい大きな果実を切り割って種子を採って播く。 翌年苗が生えたら翌々年の春二月に、苗地の近くに肥えた熟畑に肥料を入れて整地し、 四、五尺またはそれ以上の間隔をおいて一本ずつ移植する。 ときどきうすめた下肥や米の磨ぎ汁などをかけると、 だんだん成長する。冬になって葉が落ちた時、土ぎわから刈って、刈り口を炭火で焼いておくと側枝が出る。 側枝は二年たつと大きくなり、やがて結実するようになる。
○接木は、一月に芽が少し出ようとするとき、日なたのよく太った枝から立派な穂木を切り取って接ぐのである。 日陰にほうの枝を用いると結実がおそく、またなりも少ない。
○さし木にするには、二月中頃に肥えたりっぱな枝をとり、一尺四、五寸くらいの長さに切って、 基部と先端をそぎ、炭火で両方とも焼いておく。これを肥えた土地に掘って適当な間隔に並べて植え、 肥土で覆土し、しっかりと踏み付けて日覆いをしておくと全部活着するものである。
梨の貯蔵法
家の影に穴を深く掘り、穴の底に少しも湿気のないように枯れ葉を敷いておく。梨はすこしでも、傷つけたり傷めたりしないよう木からもぎとり、穴のなかに並べ、水のかからないように覆いをしておく。
こうしておけば翌年の夏まで品質を損なうことはない。(この方法では土地の高い所の屋敷など湿気のないところでないともたない)また、大根と梨とを穴の中に混ぜて並べておいてもよい。あるいは梨の果梗をさして穴の中に貯蔵しておいても夏までもつということである。いづれにしても、この貯蔵穴には日陰のきわめて感想した場所を選ぶべきである。
○梨の皮をむいて果肉の薄い切片をつくり、火にあぶって乾かし、菓子にするこれを梨花という。このようにして作った梨の名物、梨花は、遠い国からの貢ぎものにすると書いてある。また、酸っぱい梨を煮ると甘くなるものである。一般に梨は果物の王様といわれるだけあって、菓子のうちではすぐれた珍味である。
※日本農業全書13より
ニホン梨の生理機能
ナシに多く含まれている無機成分はカリウムで、ナトリウムはほとんど含まれていません。
そのため、カリウムとナトリウムの比が低く、高血圧予防に有効です。またナシにはソルビトールが果肉100gあたりおよそ0.8g含まれており、果物の中でも特に多く含まれています。ソルビトールは、低カロリーであり虫歯になりにくい糖質として知られています。また、ナシ・リンゴを豊富に取り入れた食事の介入試験から、12週間で約1.22kgの体重減少が認められています。
(文責 杉浦 実)
ニホンナシ 文献
Conceicao de Oliveira M et al. 2003 Weight loss associated with a daily intake of three apples or three pears among overweight women. Nutrition 19(3):253-6.
大阿太高原のSS(消毒用機械)による交配
SS(消毒用機械)による受粉が、今年で4年目になりました。
一年目と二年目は、手作業も併用いたしましたので、確信が持てませんでしたが昨年は
手作業を一切行わずにSSによる受粉だけといたしました。その結果まあまあということで、もう一年
SSによる作業の検証がひつようでした。
今年2019年もSS受粉を実施いたしました。その結果良好で昨年より結果が良好でした。
昨年は花が早く咲き、今年は昨年より10日遅くの受粉となりましたが、2018年より2019年の方が
歩留まりもよく、早生種の清澄梨、幸水梨、豊水梨、新高梨も上々で、廿世紀梨梨も上出来でした。
花粉も市販されている、(小林製袋が販売している純花粉)花粉と、自家製の生成花粉を混合して
使用いたしました。
元溶液として、2Lの水に純花粉10~15グラム、グラニュー糖200グラム、寒天4グラムを混合して
それをSSの500リットルのSS容器の水と撹拌して散布いたしました。
昨年と今年の気象条件の比較ですが、これは気象庁のホームページより奈良県五條市の
(大阿太高原は五條市と隣接していて気象条件もほとんど変わりがないかと思います)気象条件を
ダウンロードして、参考といたしました。
2018年 4月3日 最高気温25.9° 最低気温8.3° 4月4日 最高気温24.5° 最低気温9.2°
4月6日 最高気温19.8° 最低気温9.2°
2019年 4月15日 最高気温16.7° 最低気温3.0° 4月16日 最高気温 21.9° 最低気温0.8°
4月17日 最高気温19.6° 最低気温6.3°
このように気温で見る限りそんなに変わりがありませんが、歩留まり、梨の変形果の状態
などを観察してみると、今年の方が良好です。
もう一年、気象条件との比較をしながら観察していく必要を感じます。
送料無料の梨を守る
カイト鷹といいます。私はカラスの撃退をいたします。
風が無いと地面で休憩しますが風が吹くと飛ぶことが出来、空の散歩を楽しめます。
ナゼカイトなのか、垣内、カイト周りということば、これは田舎での自治会組織の最小単位で
5軒から10軒の家族単位ということですが、この最小単位を垣内といいます。
この鷹は遠くへは飛んでいけないのですが、垣内の中で飛ぶことが出来るんです。
これからは、カラスが梨をついばみに来ます。この垣内鷹が飛んでいれば驚くことでしょう。
送料無料で送る二十世紀梨
昨年よりも10日前後早い生育です。開花時期の気温が高めで暖かかったので、今年の梨の生育は順調です。
昨年は不作の年でしたが、今年は表年なので豊作が期待されます。
梨の花が綺麗に咲きました、こんな綺麗な梨の花はひさしぶりのことです。
やはり綺麗に咲く梨の花でないと、結実がうまくいかないのでしょうか。
個人情報の安全性
百華園のサイトも梨の通販を始めてかなりの歳月がたちました。
お客様からお預かりした個人情報を慎重に扱ってまいりましたが、さらなる安全性を保つ
ために努力をいたします。httpで始まるURLに最近httpsとSなるものが付いたサイトを
見かけるようになりました。これは、httpsから始まっているということは、
SSL/TLS通信が行われているということです。httpよりも、個人情報の
漏洩が格段に少なくなるということです。
当百華園もこのhttpsを導入しようと準備をしています。
お客様より預かった個人情報を、より安全によりガードをかたくしてまいりたいと
思っております。
梨のルーツのお話
梨のルーツである山梨(ヤマナシ)は、バラ科ナシ属の
落葉高木である。本州から九州にかけて分布していて
、山地帯のやや湿った所に生えている。
海外では、朝鮮半島、中国にも分布する。
日本のヤマナシは、本州、四国、九州の人家に近い山地に
多く見られることから古い時代に中国から渡来したという
説がありますが、私の住む奈良県の大阿太高原の近くに桜で
有名な吉野山があります。この吉野山に役行者が開いたといわれる
金峯山寺があります。
少しここで金峯山寺の説明をいたします。
(大和の国 、吉野山から大峯山山上ケ岳にかけての一帯は古くは金峯山
(きんぷせん)と称し、古代より世に広く知られた聖域でした。
この金峯山に役行者神変大菩薩が白鳳年間(7世紀後半)に修行に入り、
修験道独特の本尊・金剛蔵王大権現を感得されます。
この姿を山桜に刻んで、山上ケ岳(現:大峯山寺本堂)と山麓の吉野山
(現:金峯山寺蔵王堂)に祭祀されます。これが金峯山寺の開創と
伝えられています。 明治7年(1874年)、明治政府により
修験道が禁止され、金峯山寺は一時期、廃寺となり復職神勤しますが、
同19年(1886年)に天台宗末の仏寺として復興。昭和23年(1948年)
には、蔵王堂(国宝)を中心に、金峯山修験本宗が立宗し、
その総本山として今日に至っています。山号は国軸山、宇宙の中心の山
という意味を号しています。平成16年「紀伊山地の霊場と参詣道」
の一つとして金峯山寺本堂蔵王堂及び仁王門がユネスコの
世界文化遺産に登録されました。
金峯山寺の本堂。秘仏本尊蔵王権現(約7m)三体のほか、
多くの尊像を安置しています。
重層入母屋造り、桧皮葺き、高さ34メートル、四方36メートル。
堂々とした威容の中に、優雅さがあり、たいへん勝れた建築という
高い評価を得ています。
金峯山寺内では古くから、白鳳年間に、役行者(えんのぎょうじゃ)
が創建されたと伝えており、また、奈良時代に、
行基菩薩が改修されたとも、伝えています。その後、
平安時代から幾度か焼失と再建を繰り返し、現在の建物は天正20年
(1592)頃に完成したものです。大正5年から13年にかけて、
解体修理が行なわれ、昭和55年から59年にかけて、
屋根の桧皮の葺き替えを主として大修理を行ないました。)
(金峯山寺のホームページより抜粋させていただきました)
この本堂の柱に、千年といわれる梨の木が柱として使われています。
この木は吉野の山々から切り出されたようですが、その詳細は
定かではありません。
梨の木は大きくならないと思っておられる方が多いようですが
、自由に伸ばしてやると10~20mもの木になります。
私の農園の敷地内に、樹齢が100年を過ぎたと思われる
ヤマナシの木があります。
毎年4月上旬には花を咲かせてくれます。廿世紀梨の梨の
花よりかは2週間くらいは早いでしょうか。
大阿太高原ですが、奈良県吉野郡大淀町佐名伝、薬水の住所で
大淀町の町花は梨の花です。平成29年度の大淀町3月議会に
おいて、植樹は町の花である梨の花を植えましょうという
条例が制定されました。これは梨農家にとって喜ばしい
限りです。
大阿太高原の梨の品種
佐名伝・薬水の果樹園では、明治時代より独逸、
パサクラサン、博多青,晩三吉、ヤーリー等の梨が栽培
されていた。明治38年ごろから薬水園の奥徳平が凱歌
(二十世紀)と命名した新種の青梨を出荷し始めた。
少し遅れて周辺の果樹栽培農家でも、この新種の梨栽培
を始めた。そして次第に栽培面積を増やしていった。
昭和9年ごろに栽培されていた梨の品種は、二十世紀、
長十郎、博多青、菊水、八雲であった。戦後には
二十世紀の作付け割合が約65%
まで占めるようになり、菊水、長十郎、八雲等の
在来種が35%に落ち込んだ。
昭和40年ごろには在来種の改植が進み、
新しく幸水、その後、豊水が
植えつけられた。現在、約70%が二十世紀で残りが
豊水、幸水、新高等の赤梨となった
その他にも、なつしずく、南水、あきずき、などが植栽されては
いるがどの品種がいいのかは各農家によって評価が分かれるところ
であります。廿世紀梨のような決定打がまだ見つかっていない現状
送料無料で発送する大阿太高原
ここ大阿太高原は、奈良県の中央部に位置して、梨栽培面積は約42ヘクタールほどで産地としてはあまり大きくはないが、他の産地よりは糖度が高い
梨を発送できることで隠れた産地としての地位を誇ってきた。それには大阿太高原の土質、気候条件などが大きく影響をしている。
大阿太高原のある大淀町は奈良県のほぼ中央部にあり、紀伊山地の3文の2を占める吉野郡
の玄関口に位置している。
東には三重県との県境にある大台ケ原を含む山系が南北に連なり、南にも桜や杉の美林で
有名な吉野・大峰山系が南北に連なっている。
我が国において最多雨の地域である大台ケ原の降水は大淀町の南にある吉野川を東から
西へ流れ、和歌山県に入って紀ノ川となり紀伊水道へと注いでいる。この河川の働きが
河岸段丘を産み、大阿太高原もその影響を受けていると考えられ、果樹園にも丸い小石が
・東経 135度47分
・北経 34度23分
・東西 11.01Km
・南北 4.7km
・面積 38.06平方km
・海抜 132.8~610.5m
・人口 20.768人
(2005.1.31現在)
大阿太高原は吉野山系の北端で、標高150~250mの暖傾斜の丘陵地帯であり、竜門山系の
西部に位置している。この高原に登ると西には金剛、葛城の山々が東には竜門岳、高見山が、
そして南には大峰山系を望むことができる。この地域は明治のはじめ、20ヶ村があり、明治
21年町村制施工のときに大淀村として成立した。「大淀」の名は万葉集巻7の雑歌にある次の
和歌に由来したと考えられる。
今しきは見めやと念ひしみ芳野の
大川淀を今は見つるかも
廿世紀梨梨は明治中期、大阿太高原で栽培が始められ、今では全国的特産物として広く
知られている。
4月に咲く淡白は花は、清純・純潔の象徴ともされ、町の花に指定されている。また、町の
木はブナ科のアラカシで、古代から吉野川の清流斜面に繁り、万葉の時代から親しまれ
てきた。樹勢が旺盛で、ゆるぎない躍進を象徴するものとして大淀町にふさわしい木である。
(2)気候条件
気候は年平均気温14.5度、年間降水量1,371mmで、その大部分は梨の生育期間に降る。
紀伊半島の内陸に位置することから比較的昼夜温度差が大きく、果物の栽培に適した
気候条件である。
(3)土壌条件
大阿太高原果樹園の土壌条件は強粘土質でれき層や岩盤を含まない細粒褐色森林土
「最上統」と、壌~砂質でれき層を含んだれき質褐色森林土「五社統」がある。
次の図表は奈良県が行った地力保全基本調査の結果である。生産力特性の等級は①が
最も優れていて、耕作に適しており、④が耕作に不適で改善が容易ではなく、グラフが上に
偏っているほど土壌条件が良いことになる。「最上統」は、やや傾斜地に分布しているが、
大きな欠点がなく農業に適した土壌条件である。また、「五社統」は比較的傾斜が緩やかで
有効土層がやや浅い他は耕作に適した土壌条件といえる。いずれの土壌も湛水透水性が
優れていて、排水がよく、食味の良い梨の生産に適した土質である。有機物の
施用や深耕をすればさらに良い条件になる。

大阿太高原百華園の梨のルーツ
ナシ属は、西洋梨、中国梨、日本梨とに分かれます。
西洋梨
西洋梨で有名なのが「ラ・フランス」よく聞かれると思います。最近は「ル・レクチェ」
や「バートレット」など新しい品種の西洋梨も並ぶようになりました。外観はでこぼこしていてひょうたん型の楕円形をしています。果肉はとろけるように甘く、やみつきに成りそうな食感です。しかし追熟が必要なため食べ頃に時間がかかります。
で、その産地をさかのぼっていくと、三種類(西洋梨、中国梨、日本梨)は一つの原産地にたどりつきます。元々チベットの山地で生まれたのでは、、、
そこから一方は東アジアから日本に、もう一方は天山西部に広がりさらに近東に広がっていきその近東でいまの西洋梨が生まれたと考えられます。
歌舞伎界は何故梨園と呼ぶの?
元々は、演劇会のことを「梨園」と呼ぶそうです。その昔中国が唐の時代に玄宗皇帝が梨の花の咲きあふれる中で役者に芝居を教えたという話から江戸時代の国文学者が「梨園」と使いはじめたとされています。
ナシ属は、西洋梨、中国梨、日本梨とに分かれます。
西洋梨
西洋梨で有名なのが「ラ・フランス」よく聞かれると思います。最近は「ル・レクチェ」
や「バートレット」など新しい品種の西洋梨も並ぶようになりました。外観はでこぼこしていてひょうたん型の楕円形をしています。果肉はとろけるように甘く、やみつきに成りそうな食感です。しかし追熟が必要なため食べ頃に時間がかかります。
で、その産地をさかのぼっていくと、三種類(西洋梨、中国梨、日本梨)は一つの原産地にたどりつきます。元々チベットの山地で生まれたのでは、、、
そこから一方は東アジアから日本に、もう一方は天山西部に広がりさらに近東に広がっていきその近東でいまの西洋梨が生まれたと考えられます。
歌舞伎界は何故梨園と呼ぶの?
元々は、演劇会のことを「梨園」と呼ぶそうです。その昔中国が唐の時代に玄宗皇帝が梨の花の咲きあふれる中で役者に芝居を教えたという話から江戸時代の国文学者が「梨園」と使いはじめたとされています。

廿世紀梨梨の送料無料の昔話
掲載発表されるやいなや、たちまちにしてその名声は関係者の間につたわり、
各府県農務課、県農会そのほか熱心な篤農家など視察に来園するものがあとをたたず、
そのつど苗木や穂木を懇望された。そこで、松戸覚之助は毎年数千本の苗木を養成し、
広く一般栽培者と種苗業者に配布したが、養成本数の一割は全国の梨栽培篤農家に
無償配布して、試作を乞うという熱心さであった。こうした優秀な品種をもちながら
これを独占することなく率先して広く開放した松戸覚之助の人柄こそが、本種の急速な
普及をうながし、まさに二十世紀梨時代の発端をつくった直接の原因である。
また、こうしたものにはとかく本家争いが起こりがちなものであるが、二十世紀梨も
その例にもれず、大淀町薬水で同種の梨栽培をはじめていた奥徳平との間に複雑な問題を
生じていた。
二十世紀梨が、日本梨の中の優秀なものであるとして一般に認められるようになったのは、
明治41年東京新宿種苗株式会社で開催された園芸品評会で、他品種を圧して特等賞
を授与されたことにはじまる。
さらにその後、明治43年農商務省農事試験場の手で英国ロンドン市にて開かれた
日英大博覧会に、日本の果実代表として出品し、東洋種の梨として最高名誉賞を獲得した。
また年々各地の品評会、共進会、博覧会などに出品されて幾多の褒賞を受けるなど、
新品種「二十世紀」は関心のまととなった。
明治21年に発見されて松戸覚之助の錦果園に移植された二十世紀梨の原木はその後、
昭和10年三木泰治の指導によって、当園主松戸覚之助(二代目)が、天然記念物指定の
申請書を文部省あてに提出した。
さっそくその年の二十世紀梨の収穫期に理学博士三好学ら文部省天然記念物審査員一行が
来園し評細に原木について調査した。続いて、梨育種研究家の菊池秋雄が来園するなど
調査は具体的にすすみ、昭和10年12月24日文部省告示第427号をもってつぎの
ように天然記念物として正式に指定され、石原千葉県知事から二代目松戸覚之助に伝達。
同時に原木の保存に対する注意をあたえられた。
記
一、名称ハ二十世紀梨原樹トス
一、指定地積ハ東葛飾郡八柱村大字大橋字北大塚九百二十五番地
民有一筆内実測一畝二合五勺トス<br>
向後本天然記念物ノ保存ニ関シテハ遺漏無キ様
特ニ別記事項ニ留意相成度此段通牒候也
二十世紀梨原木の一部と二十世紀梨誕生の地記念碑
わが国梨界の王者として君臨する二十世紀梨は初めてこの地に生まれこの地に育った
すなわち先代松戸覚之助翁が苦心の賜ものとしてこの地から得た成熟果を明治三十七年秋
二十世紀梨と命名し世に贈ったのに始まる以来果実の水気と甘味は賞揚され
栽培もまた全国に広がった
いっぽう二十世紀梨原樹は昭和十年に天然記念物指定をうけたが二十二年に惜しくも枯死した
ここにこの地を記念して史跡に指定し合せて翁の偉業を永く後世に伝え残すために
この碑を建てるものである
昭和四十年三月
惜しくも、発見者初代松戸覚之助はこの指定に先だって昭和9年6月2日永眠し、この指定を
知ることはなかった。原木は松戸覚之助一家の手あつい管理によって生育を続けた。
ところが、昭和18年以降、太平洋戦争は苛烈の一途をたどり、ついに原木の管理にも手が
とどかず、樹は衰弱しその極に達した。昭和20年第二次世界大戦中、梨棚全部が近くにある
工兵学校の火薬庫とまちがえられ、徹底した爆撃を受けて梨園は全滅した。
原木も被害を受け、錦果園は戦争とともに廃業の憂き目を見ることとなった。そして、
昭和22年ついに原木は枯死してしまった。
しかしながら、このことは人々の記憶から忘れられることなく、昭和40年3月に松戸市
教育委員会は、原木の場所(現松戸市二十世紀ヶ丘)に「二十世紀梨誕生の地」の記念碑を建立した。
品種である。現在では二十世紀梨として扱われている。
奥徳平は父奥貞次郎、母クスの次男として、明治11年6月15日に大阪府南郡岸和田堺町
(現大阪府岸和田市下野町)にて生まれた。
その因縁で徳平は日本で初めての農業専門学校である札幌農学校に入学。最新のアメリカの
農業技術を習得していく中で、当時、人力や牛馬の力による農業から動力機械による農業へと、
発想が大きく転換される頃であった。また、農作物においても穀物、野菜を中心とした栽培
から果樹栽培等も注目されはじめた時でもあった。
農業及び園芸の最新情報が集まる当時の農業専門学校に学んでいた徳平は明治21年
松戸覚之助によって発見された二十世紀梨のことを誰よりもよく知っていたのではなかろうか。
当時の最高学府の農学と教育を身につけた徳平は、これを実際に自らの手によって研究栽培
してみたく、梨栽培の魅力に取りつかれた一人ではなかっただろうか。それを奥一家あげて
計画立案されたものと思われる。
特に梨は、気候風土が適さない北海道よりも本州の方が適していることで土地を求めた
ようである。すでに北海道夕張郡角田村で払い下げを受けていた10町歩の水田を売却し、
これを資本として兵庫県の山本という所も有力な候補地の一つであったが、最終的には
大淀村薬水を適地とした。当時奥家の果樹園へ働きに行っていた人たちの証言によると、
父貞次郎が以前、島根で鷺鉱山という鉱山を開発していた時代の人間関係のつながりが
あって、大阿太高原の地に来たものである。
奥家が手に入れた土地は南葛城郡(現御所市)戸毛の
小西家所有の地であった。この当時、小西家の風評には
「行ったら見てこい戸毛の小西、金の土用ぼし玄関先までも」
という言葉が広まり、全盛の時代があったという。この小西家
の土地を斡旋したのが薬水の横澤熊太郎であるとされている。
こうして奥家が薬水に約5町歩の土地を手に入れることとなった。
を探した。果樹栽培、特に梨は、気候風土が適さない北海道よりも
本州の方が適していることで土地を求めたようである。
すでに北海道夕張郡角田村で払い下げを受けていた10町歩の
水田を売却し、これを資本として兵庫県の山本という所も有力な
候補地の一つであったが、最終的には大淀村薬水を適地とした。
当時奥家の果樹園へ働きに行っていた人たちの証言によると、
父貞次郎が以前、島根で鷺鉱山という鉱山を開発していた時代の
人間関係のつながりがあって、大阿太高原の地に来たものである。
奥家が手に入れた土地は南葛城郡(現御所市)戸毛の小西家所有の
地であった。この当時、小西家の風評には「行ったら見てこい戸毛の
小西、金の土用ぼし玄関先までも」という言葉が広まり、全盛の
時代があったという。この小西家の土地を斡旋したのが薬水の
横澤熊太郎であるとされている。こうして奥家が薬水に約5町歩
の土地を手に入れることとなった。
義雄の四人が大淀村に来村し、梨のほかにすももや桃などを栽培する薬水園(やくすいえん)
という果樹園の経営を始めた。後に貞次郎の長男容の妻に大淀村下渕俵本家より迎え、
地元との関係も深めていったのである。
薬水園では明治38年ごろから白梨(パイリ)の花粉で人工交配させた梨を日露戦勝に
あやかって「凱歌」という名前をつけて販売し始めた。当時、梨といえば赤梨が主流であった。
そのような中、新品種の青梨の登場は各方面の人々から大変な注目を集めたようである。
特に薬水園の凱歌梨は高価で売れているようだと伝え聞き、園内の状況が周辺の果樹農家に
とって関心の的であったに違いない。穂木の取得経路は定かでないが、少し遅れて周辺農家が
同種の梨の栽培を始め、梨の名前も始めは「凱歌」として販売したので、薬水園から
再三にわたり異議申し立てをされていたようである。
その後、周辺農家は梨栽培面積を徐々に増やし、時期は定かでないが凱歌(かちどき)
を勝利(かちどき)と名前を代えて出荷し始めた。これらの対応に当たったのは、薬水園に
隣接して果樹栽培をしていた、西村文七、山口房吉、向出安太郎、中西栄吉らであった。
出荷等で競争をもたらし、今日の梨栽培に大きく影響したといえる。
その後、明治43年に奥徳平は「凱歌」の名を商標登録し、苗木の予約分譲を始め、分譲者
以外にその名称の使用を禁じたのである。これを維持するため、薬水園では凱歌ナシの
穂木が外部に出ることを警戒して、せん定した若枝は焼却し、農園の周囲には厳重な有刺鉄線
を張りめぐらした。さらに接木の時期になると猛犬を放ち、とくに雨の強い日など
実弾をこめた鉄砲を持って見まわり、穂木どろぼうを警戒したといわれている。こ
のように苗木はすべて薬水園で養成して予約販売とし、正式に分譲されたもののみが「凱歌」
の名称使用を許されていた。薬水園は、このような苗木の販売方法をとり、さらに梨の販売
においては「日本紳士録」から、名士たちに直接梨を送り宣伝した。これにより凱歌梨の名
は一躍有名になっていった。
声があがってきた。それに対して奥徳平は「この品種は自分が苦心して作り出した新品種である。
なのに二十世紀の苗木(穂木)を盗んだようにいわれることは心外である。むしろこの系統
では二十世紀よりも先でこちらが本家である」と、二十世紀梨と凱歌梨の本家争いをめぐる
訴訟を起こした。凱歌梨は二十世紀梨とは果形が異なり、とくに貯蔵輸送に耐えるものと
称して異品種であることを訴えた。しかし、梨育種研究家の菊池秋雄は黒斑病に対する
抵抗力が極端に弱いこと、花柱の基部に毛茸があることなどの特殊な形質が全部一致する
点から推定して、凱歌梨と二十世紀梨はまったく同品種であると断定した。
また、千葉高等園芸学校の三木泰治は「奥徳平の梨は自分が斡旋したものでよく知っている。
千葉から二十世紀梨の穂木を取り寄せて接木しており、奈良でできたものではない。」
と明言している。これにより凱歌梨は、千葉県にある二十世紀梨の原木からその系統を
引いたものであり、二十世紀梨とは同一品種であると判決されたことが裁判の決着となった。
このような問題もあったが凱歌梨・勝利梨共に世に知られるようになり、軽便鉄道福神駅
での駅頭販売や、中国大陸、朝鮮半島、極東ロシアなどへの輸出も行われることによって、
桃が中心であった産地が梨産地として生まれ変わっていったのである。
が蔓延し、それに耐えうる栽培方法の研究が進められていた。大正4年、奥徳平は東京にある
農商務省西ヶ原農事試験場のト蔵梅之丞を訪問し、黒斑病の甚大なる被害を訴え、防除に
ついて相談した。ト蔵は明治41年、和歌山においてミカンの腐敗防止にパラフィン袋が
有効であったことを想起し、そのことを伝えた。薬水園に帰った奥徳平は凱歌梨にパラフィン袋
を試用、こうして黒斑病防除に効果があることがわかり、日本で最初の新たな技術が生み出された。
パラフィン袋の採用は、この佐名伝・薬水(大阿太高原)の大地から全国各地の二十世紀梨産地
へと広まっていったのである。今、百年以上も二十世紀梨が栽培され続けてきたのは、奥徳平の
業績が大きい。その後も徳平は土壌病害のガスくん蒸、人工交配などの技術を編み出した。
大正初めごろ薬水園には茶室が設けられていた。父の貞次郎は隠居同然となり、漢書を読み、
漢詩を作り、茶の湯と製図を愉しんでいた。その頃、各地から茶人が往来するので、
貞次郎は大工を連れて高松栗林公園の茶室を見に行き、それを製図して薬水園に全く
同一のものを建てた。
徳平であるが、甥にあたる奥佐から直接得た状況によると、徳平は胸部疾患結核の持病があり、
健康にはあまり恵まれなかったという。凱歌梨が世に出まわる頃には、実務はほとんど徳平の
兄であり奥佐の父である奥容が行なっていた。徳平の一面史としてこんな話がある。
徳平は少年時代農業見習のために、父の友人で、夕張角田村の村長である泉家へ牧童として
住みこんでいた。そして泉家長女喜雨と兄弟のように養育され、将来は一緒になるものと自他
ともに認めていた仲であったが、それは実現せず一つのロマンスとして終わったのである。
奥一家が北海道を引き上げた後、喜雨は北海道からこの吉野郡大淀村薬水の薬水園に徳平を
訪れている。その時に徳平の側に親戚の女の人が来ており、喜雨はその人を奥さんと勘違いした。
彼女は傷心の心をいだいて北海道へと帰り、その後櫻場家へ嫁に行った。奥佐が泉家の旧居を
探し出して、喜雨の生前に直接聞いた話であるという。
生涯独身であった。二十世紀梨栽培の歴史に名を刻み昭和2年2月8日、49歳でこの世を去った。
その後、経営は奥貞次郎の長男容が行っていたが昭和 年に惜しくも亡くなった。奥容の死後、
昭和3年には薬水園の所有が元日本紡績副社長の福本元之助へと変わり、生産管理人は、
商科大学卒業の人、黒田元三郎となった。翌昭和4年、福本元之助が薬水園を売却し、伊藤忠が
株主となり「株式会社薬水園」を設立した。戦前、戦中実際の農作業は佐名伝、薬水の農業従事者
があたっていた。そして戦後の農地開放により薬水園の土地は農業従事者へと移っていった。
昭和43年11月23日明治百年を迎え、わが国の農林業の発展に顕著な業績をあげた者として、
二十世紀梨発見者の松戸覚之助とともに、奥徳平に農林大臣より顕彰状が送られている。さらに、
奥徳平は平成16年4月17日、二十世紀梨栽培で最も障害となる「ナシ黒斑病」に対して
パラフィン紙による防除を発見された人として鳥取県知事より生前の功績に感謝状が授与された。
農林大臣からの顕彰状、鳥取県知事からの感謝状、片山知事から奥佐氏が代理で感謝状を受け取る
当時の薬水園の面影はなくなっている。
徳平であるが、甥にあたる奥佐から直接得た状況によると、徳平は胸部疾患結核の持病があり、
健康にはあまり恵まれなかったという。凱歌梨が世に出まわる頃には、実務はほとんど徳平の
兄であり奥佐の父である奥容が行なっていた。徳平の一面史としてこんな話がある。
徳平は少年時代農業見習のために、父の友人で、夕張角田村の村長である泉家へ牧童として
住みこんでいた。そして泉家長女喜雨と兄弟のように養育され、将来は一緒になるものと自他
ともに認めていた仲であったが、それは実現せず一つのロマンスとして終わったのである。
奥一家が北海道を引き上げた後、喜雨は北海道からこの吉野郡大淀村薬水の薬水園に徳平を
訪れている。その時に徳平の側に親戚の女の人が来ており、喜雨はその人を奥さんと勘違いした。
彼女は傷心の心をいだいて北海道へと帰り、その後櫻場家へ嫁に行った。奥佐が泉家の旧居を
探し出して、喜雨の生前に直接聞いた話であるという。
生涯独身であった。二十世紀梨栽培の歴史に名を刻み昭和2年2月8日、49歳でこの世を去った。
その後、経営は奥貞次郎の長男容が行っていたが昭和 年に惜しくも亡くなった。奥容の死後、
昭和3年には薬水園の所有が元日本紡績副社長の福本元之助へと変わり、生産管理人は、
商科大学卒業の人、黒田元三郎となった。翌昭和4年、福本元之助が薬水園を売却し、伊藤忠が
株主となり「株式会社薬水園」を設立した。戦前、戦中実際の農作業は佐名伝、薬水の農業従事者
があたっていた。そして戦後の農地開放により薬水園の土地は農業従事者へと移っていった。
昭和43年11月23日明治百年を迎え、わが国の農林業の発展に顕著な業績をあげた者として、
二十世紀梨発見者の松戸覚之助とともに、奥徳平に農林大臣より顕彰状が送られている。さらに、
奥徳平は平成16年4月17日、二十世紀梨栽培で最も障害となる「ナシ黒斑病」に対して
パラフィン紙による防除を発見された人として鳥取県知事より生前の功績に感謝状が授与された。
農林大臣からの顕彰状、鳥取県知事からの感謝状、片山知事から奥佐氏が代理で感謝状を受け取る
当時の薬水園の面影はなくなっている。

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二十世紀梨の発見と松戸覚之助
廿世紀梨梨は、明治21年千葉県東葛飾郡八柱村(現松戸市)で松戸覚之助
(1875~1934年) 二十世紀梨は、明治21年千葉県東葛飾郡八柱村(現松戸市)
で松戸覚之助(1875~1934年)によって発見された偶発実生である。
当時13歳の覚之助少年は、春のある日、分家の石井佐平宅に立ち寄った帰り道、
ふと塵捨て場に実生の小さい梨の樹があるのに目をとめた。それが今まで見たもの
とはどこかちがった品種のような気がしたので、佐平に話してこの樹をもらい受け、
八柱村大字大橋字北大塚の父が経営する果樹園(錦果園)内にそれを植えた。
植えつけた当時、この樹はすでに数年生のものであった。
その後、この梨の樹は「黒斑病」に弱く、樹は思ったよりも育ちが悪かった。
管理に苦労はつきまとったが断念することなく、この樹はきっと美しい実を
結ぶにちがいないと信じ、なおも手入れを続けた。その甲斐があって植え
つけてから10年を経過した明治31年9月上旬になって、初めて成熟した果実を
手にすることができた。その果実は上品な甘さと、したたるほどの水気をもっている。
従来の品種より優れていることに喜んだ松戸覚之助は、さっそく東京帝国大学
をはじめ、そのほかの専門家に送って批判を乞うた結果、その梨は品質、外観
ともに優秀であることが認められ、とくに、当時の園芸愛好家であった大隅重信侯爵、
本草学者で明治の果樹園芸会の恩人である田中芳男男爵らに寄贈して、
絶大な賛辞がよせられた。
しかし、この梨にはまだ特別な品種名がなかった。そこで、そのころ青梨の
優良品種であった「太白」にあやかって「新太白」と呼ばれていた。
その後しばらくして、本種に対して将来性を賞賛し愛好した種苗商、東京興農園主
渡瀬寅次郎農学士は東京帝国大学農科大学助教授池田伴親に相談のうえ、「この先、
右に出るような品種もなく、20世紀時代を背負って立つに違いない」との思いから
明治37年に「二十世紀梨」と命名された。
この続きがあります。後日掲載いたします。